昭和54年08月16日 朝の御理解



 御理解 第33節
 「お供え物とおかげは、つきものではないぞ。」

 お道の信心でお供えと言う事は強要しない。こうしなければと言うのではない、氏子が真心から用いるもの。教祖様はその真心を追求なさった方です、ですから真心さえあれば、それこそ庭の散り葉一枚でも神は受けると仰せられる。神様が受けて下さると言う事は、いわばそのまま神様の喜びであると同時に。又の御理解に氏子に「寄進勧化をしてはならん」、けれども氏子が真から用るのは、神も比礼じゃがと仰っとられます。神の比礼と言う事は、生き生きとお喜びを現して見せて下さるという意味なのです。
 比礼生きたあの鯛なら鯛が泳いでいる時にヒレを、ピッピッとこうあぁいう意味の事なんです。ヒレイ勢い神の勢いをんえ、いうなら神様がお喜び下さる、氏子が真から用るのはとこう仰っしゃる、だから此処で金光様の御信心はお供えと、皆んながおかげを頂きたいおかげを頂きたいという人の場合には、お供えは私はいらんと思うですね。そこをはっきりと仰っとられる。お供えせにゃおかげ頂かんというこっじゃないとね。但し神のヒレイ、神の喜びその神の喜びが私共え照り返ってくる。
 神の喜びを自分の喜びとして感じれれるようになる、もうこれはいうならば神様と一体になる手立なんです。天地と一体になれる手立てなんです。ですからおかげはお供えせんでも、お願いをしてお取次を頂いておかげを頂けるけれどもなら、力を受ける徳を受ける、天地の大徳を受けると言う事はそうではない、供え物とお徳とはと仰ってないお供え物とおかげは附物ではない、これはもう本当にそうです。お供えせにゃおかげ頂かれんという神様じゃないです。
 けれども段々信心させて頂くようになって、おかげを頂いて参りまして、神様のお心が少しわかる様になってまいりますと、そうせずにはおられんのが私は真心だとこう思う。私の一番修行の激しかった時分に、まだ福岡で修行中の時分でしたが、ちょうど御大際ともなると二日ぐらい前にこちら方に帰って参ります。それでまぁいろいろと御用させて頂く訳ですけれども、私は御大祭という時には必ず、まず御大祭前に祭典費のお供えをさして頂きました。御大祭というのは先生のお祭りじゃない。
 もう信者氏子一同のいうならばお祭り。ある人は御大祭は日々信心の稽古をさして頂いておる、その稽古の試験のようなものだ。答案用紙を出す様なものだとさえ言われております。自分が今度の御大祭にどれだけの力を入れたか、それがいうなら大祭から大祭までに信心の稽古をさして頂いた実が、どれだけ上がったかというバロメーターになるのです。だからお供えはね、細めるなまた決めるなと仰るです。自分なこれだけち決めちゃならん、しかも細めちゃならん、よりというものがなからなければならない。
 おかげとお供えじゃないですよ。お供えと力であり徳であり、神様と一体になっていけるという話しなんです今日の話は、祭典費のお供えはさして頂いとったけれども、2日前の大祭二日前に帰らせて頂くのに、今度はお供えが何も出来なかった。もうその時にはどうにも出けない状態でしたから、家内子供は椛目の方へ帰しておりました。それで私だけ残って、そして御大祭二日前に帰る。丁度家内からハガキが来ておりました。
 こちら椛目の方で子供三人、それに私四人の者がもう遅配欠配の時分ですから、椛目の食物が少なくなっていく、やはりいくら親でも気がねなんです、そちらにもし配給が取れたら、配給何でも良いから持って帰って来て下さい。という便りを受けておりましたから、もうそれこそ四苦八苦してから、メリケン粉を約一俵と配給をそのくらいありました。それを持って帰る。ちょうど西鉄の電車、もうあの時分は電車を、ずっと行列して乗っておりました。時間を待っとる間に私はもうしみじみ考えた。
 こうやて今日は御大祭に帰らせて頂いておるが、本当に今度の御大祭ばっかりは、もうお供え一つ出来なかった事を、本当に相済まんなぁとそのう思わせて頂いた。そしたら神様がね私がこうやって立って待っておる所に、そこにメリケン粉がおいてあります。家に持っていきよると、したらこう指差して下さって「そこにあるじゃないか。」と頂いたんです、もう私は弾かれる様にはぁ本当これだと思うたです。いいえ是はもう家内子供のそのと言う事は思いませんでした。
 本当ここにあったと思いましたから、もうそれをお供えその場で腹が決まりました。そしたら神様が鶏の雌鶏がね、首を羽根のところに突込んでおる状態を皆さん見た事があるでしょう。丁度その雌鶏が首を羽根の下に突込んで、もうそれこそ思案投げ首と言った様な感じでしておる所を頂いた。そしてそこにいたあのうヒヨコの何羽が、もう餌がつれでパタパタ倒れているところを頂いた。神様は「そこにあるじゃないか」と、言いながらこれをお前はお供えするといいよるけれども、なら子供達が「餌がつれ」したらどうするかという様な感じでした。
 又家内がもうそれこそ、まぁ今日はお父さんが何か持って来てくれるだろうと思って待ってるぞとこう言うて下さった。それでも私の腹は決まった。いつも御教に頂きます様に、それこそ年に一回の御大祭、四回ありますけども、夏の御大祭という今日なら今日一日ですよ。春の御大祭は春だけ一回、だから御大祭は私にとっては一回なんだ、その一回の御大祭に日頃こうおかげを頂いておるのに、お供えもでけんと言う事では相済みません、今お気付けを頂いた。
 これをこのままお供えさせて頂きますから、もう家内子供の事はどうぞよろしゅう、という気持でした。そしたらね神様が目の前にずうっと広い広い湖を御心願に頂いたです。そして小さい水鳥がこう餌を求めて行っとるけども、無いから三三五五バラバラにこう散ってゆくところを頂いた。その後からね、それこそその十倍も二十倍もあろうか、と思う様な大きな水鳥が、口に何か餌のようなものを喰へて、矢を射る様な勢いで散って行った水鳥の後を追うて行く所を頂きました。
 おかげでそれなら形ばかりのもの、それこそ真っ黒いメリケン粉でした。あの時分の配給というのは。それから御大祭を頂いて明くる日一日御用さしてもろうて、その翌日帰らせてもらったんです。帰らせて頂いたら私の方の家の前に、あのう自転車が一台とまっておりますもん、そしてあのうメリケン粉を一乗せちゃりますもん。いやあもうあんたが居んなさらんなら帰ろうと思いよったと言うわけです。中国の方でした、私が繊維の商売をもうその時は止めてましたけれども。
 しとりました時に或るお世話をしておって儲かった訳です。だからその御礼に来たと言うてメリケン粉を一俵、あの時分は進駐軍から出る第三国人達のメリケン粉というものは、もうそれこそ目の輝くような真っ白いメリケン粉でした。それを一俵後に積んであるいゃないですか、もう本当にその私は思うお供えとねおかげは付き物ではないけれども。お供えと力は付き物だと、私はそれによって力を受けた。おかげでそういう言うならば、前にも増した真っ黒いメリケン粉じゃない。
 一俵たらずのそれがその一俵しかもそれは喜びが添えられておる。あの時にはお世話して頂いて儲からしてもろうた。これはお礼の印だけれどもと言うて持って見えた様な事がございました。だから皆さん只これをね、お供え物とおかげはね付物ではないと言う事、只そこだけ頂きますとね、んならお供えせんでよかごたるなら、お供えせんなりおかげ頂いた方よかと思う人も沢山あろうかと思います。けれどもお供えの内容というのはね、それはいうならば、お互いの真心であると同時にです、それは私共もの命なんです。
 それこそお金が命という人がありますでしょと同じです。お金なしに生きられません、食べ物なしには生きられません、食べ物は私共の生命のもとです、衣類なしには生活出きません、衣類その一枚でもそれは私の命なのです。その命を言うなら身を削り心を削りしてのお供えになるのですから、これを神さまが受けて下さらない筈がないです。私共が命をお供えするんですから。お供えの内容にはそういう素晴らしい、しかも天地と交流する手立てね。
 〇〇教ではないですけれども、この病気には幾ら幾ら、もうまたそれでおかげ頂くんです。この病気には一反、お百姓さんであるなら一反なら一反の田地をお供えすると助かる、そういう教えすらがあるくらいですから。けどもそれも私思います。やっぱし理におうた事だと思います。金光教ではお供えの要求もなからなければ、またお供えをしなければおかげにならんと言う事はない。おかげになるです。
 けれどもね私共のいうなら命を削っての、そのお供えがどう言う事になるかというと、それは必ず力になる、徳になると言う事でございます。私は合楽の信奉者の皆さんは、ただ目先のおかげなるほどいくらお供えしたっちゃ、さぁ今その言うならデパ-トで買物をする様な訳にはまいりません。金払うた品物を持って帰る様な訳にはいきませんけれども、なるほどおかげはつき物でないですけども、けれども目には見えないけれども、力になる徳になる。
 そんならば百円よりも千円、千円よりも万円と言う事になるのぢゃないでしょうか、ね、力を受けるその力がね、私共の生きて行くねいうならエネルギ-源なんですね、力強い信心生活が出けるというのは、そういうエネルギ-を貯えた人達の事をいうのです。間違えてはならない、お供え物とおかげは付き物ではない。確かにそうだ。けれども力はつきものお徳はつきものと言う事になりますですね。
   どうぞ。